ケッペキショウ:考察

こんにちは! 今日は、ケッペキショウについて考察していきたいと思います。
 
作者の「すこっぷ」さんは、女の子のいろいろな負の面をとらえたような
 
作品が多い傾向がありますが、今回の作品「ケッペキショウ」は
 
どのようなものなのか考えていきましょう。
 
本家さんのリンクはこちら!
 
まずは基本情報から
 
 

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作詞:すこっぷ
作曲:すこっぷ
編曲:すこっぷ
唄:GUMI
 
いらない 汚い 感情なんてもう いらない 嫌な 思いなんて
人は 誰も 幸せとか  求めすぎて こんな汚い
 
「人それぞれ」と言うくせして  価値観 快感 分かち合って
都合悪くなれば今度は 「人はみな」どーのこーのって言うんだ

 

それじゃ ちゃんと 教科書でも 作り ちゃんと 定義してよ
人のあるべき生き方 とか 清く正しい男女関係

 

そうさ僕ら寂しいって言葉吐いては  分かり合えたフリしてるだけで本当は
満たされることを愛と勘違いして  何も分かっちゃいないな

 

ダメだったんだ 人類は それは とうに とうに 手遅れで
どうなったって本能は 都合良く波長合わせていく

 

汚れちゃった 感情に 心は もう 石のようで
求め合いの惨状に もう 汚い 触らないで

 

悲しい話 さっきからもう 語りっぱなし どーゆーつもり?
茶化し 冷やかし 飽きたらもう 笑いは無し なんておかしい

 

形ばかり 気にしすぎて まさに 敵(かたき) 見てるみたい
かなり やばい 頭の中 もう タラリ タラリ ドゥー パッパラパ☆

 

そうさ僕らいつも欲に毒されては  手に入れてはすぐに飽きて放り出してさ
そしてまた次のおもちゃを見つけ言うんだ 「君しかいないんだ」

 

やっぱ そんなもんじゃんか 所詮 人間なんて利己主義で
僕らだってそうなんだ 汚い色に染まってくんだ

 

冷めきったみたいなんだ 偽善なんてもう 見たくないし
だからいっそ泣いたって ほら もう 近づかないでよ

 

―夜は溢れる夢描いて―
―朝は光る希望抱いて―
―清く正しく前を向いて―
「待って。そんな無理しないで」

 

なんて言う人もいなくて 泣いて もがいて べそかいて
こんな思いは何回目 綺麗好きすぎて もう
何もかも見たくないな

 

ダメだったんだ 人類は それは とうに とうに 手遅れで
エゴばっかの世界なんて 息を吸うのだって困難で

 

誰だってわかってんだ 自分勝手だって 価値なんて
だから 口塞いじゃって もう 知らない じゃあね バイバイ
 
 
 
 
この曲は、思春期の年齢の人が思い悩みやすい、
 
とはいえ、軽いものではない、
 
感情の問題を表しています。
 
思春期の時に抱えた人間関係の問題、
 
人から言われる意見の受け入れがたさ、
 
自分に対する嫌悪感。
 
大人になるにつれ、いろいろなことが目に付いてくる。
 
この思春期の時の感情を吐露したこの作品を
 
見ていきましょう。
 
年齢が上がるにつれ、引っかかるいろんな感情。
 
綺麗な感情、汚い感情に傷つけられる繊細な思春期の心。
 
いらない 汚い 感情なんてもう
 
そのような感情に痛めつけられ、感情なんかはいらないと
 
そのような考え方に至ってしまった経緯が見て取れます。
 
いらない 嫌な 思いなんて
 
もうこんな思いはしたくない、傷つけられたくない
 
傷つけたくない、という気持ちから、嫌な感情を
 
ごみとして表し(隠喩)

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捨ててしまうととることができますね。
 
 
人間は嫌な思いを避ける、きれいなものになるために
 
人は 誰も 幸せとか  求めすぎて こんな汚い
 
幸せをを求め、結果的に汚くなってしまう、
 
導入部分は、おおまかにこのようなことを言っていると
 
推察することができます。
 
 
 
思春期の年齢になると、たくさんの人と触れあう
 
機会がたくさん増えると思います。
 
そんななか、自分とは違う、性格も違う、
 
それは人それぞれだ!と片付けられがちですが、
 
この時期に関しては、自分とは何なのか、なぜ
 
ほかの人はこうなのか、ということが
 
特に目につきます。これは思春期特有の悩みです。
 
私は高校生の時に訪れた記憶があります。
 
この問題はみんなに訪れる、よくある問題でありながら、
 
とても重大な問題でもあります。
 
しかしそんな問題も
 
「人それぞれ」と言うくせして  
 
「人それぞれだ」
 
 と言われてかたずけられてしまうことがほとんどです。
 
そして「人それぞれだ」というくせに
 
あれはいい、これはいいと共感しあって、
 
自分が本当に好きなものではなく、みんなが好きなものを
 
 
価値観 快感 分かち合って
 
 集団意識として、好きとして共有しあう。
 
都合が悪くなれば今度は、この集団意識を
 
都合悪くなれば今度は 「人はみな」どーのこーのって言うんだ
 
なかったことにして、人はみな1人1人違うんだ!と
 
思春期のデリケートな心に、わけのわからない
 
手のひら返しのようなことを言われます。
 
 
それじゃ ちゃんと 教科書でも 作り ちゃんと 定義してよ
 
そんないい加減なことを言われてしまったら、
 
ちゃんと決めといてくれよ!と
 
文句の一つも言いたくなりますよね。
 

人のあるべき生き方 とか 清く正しい男女関係
 
人は人それぞれでいるべきなのか、
 
集団として成り立っている社会集団なのか。
 
恋愛を追い求めるとき、結果的に汚くならない、
 
清く正しい男女関係とは。

 

思春期の持つ私たちの男女関係、恋愛関係。

 

それは結局お互いを満たしあう、共感しあうことで

 

お互いを理解しあっていると錯覚している。

 

そうさ僕ら寂しいって言葉吐いては  分かり合えたフリしてるだけで本当は
 
そんな私たちの男女関係を、真に理解しているなんて
 
いえるはずもないですよね。

満たされることを愛と勘違いして  何も分かっちゃいないな
 
結局は人は集団意識による塊でしかない。
 
もうどうすることもできない。

 

ダメだったんだ 人類は それは とうに とうに 手遅れで
 
共感しあうことでしか波長をあわせることができない。
 
しかし集団意識の塊であるがゆえに
 
都合よく波長を合わせていく。

どうなったって本能は 都合良く波長合わせていく

 

そんな集団意識でしか考えられない

 

汚れた感情は、もう手遅れで、まるで石のように

 

硬くなってしまっているということも表していますね。

 
汚れちゃった 感情に 心は もう 石のようで
 
そんな周りの人間がいやで、自分は自分でありたいと
 
願う主人公が、お互いを共有する、求め合うだけの
 
いまの環境を拒絶する。これがこの曲の芯です。
 

求め合いの惨状に もう 汚い 触らないで
 
そして、曲の絵を見ていただければわかることなのですが、
 
主人公は心理学の本についてたくさん読んでおり、
 
本当は人とかかわるのが苦手だったということふうに
 
考えることができます。今回の考え方で言うと、
 
集団意識にとらわれることのない、唯一の存在である。
 
集団意識にとらわれる人、社会集団を汚いものとみなし、
 
そんな汚いものに触れたものじゃない。
 
というところから、「ケッペキショウ」という発想に至った
 
のではないでしょうか。普通の人ならここまで
 
思いつめることがない、そこまで過敏になることはない。
 
最終的には社会集団として生きていきます。
 
しかしケッペキショウであるがゆえに、過敏に反応してしまい、
 
汚いものにしか見えない。というのがこの曲の深淵です。
 
 
まとめ
初めのほうで紹介した、感情をごみとして表し、
それを捨てる、という絵がありますが
これも、感情に過敏に反応して、汚いものにしかみえない
ということを表していることがわかります。
汚いものを拒絶し、自分が自分であるため、
自分を守るためのケッペキショウなのかもしれません。
 
正直男女の関係についてはあまり取り上げることができなくて
本当に申し訳なかったと思います。しかしこの曲では
男女の関係があまり関係ないものと判断しました。
確かに男女の関係による心理、感情の発生と
考えることもできますが、それよりも、
ケッペキショウという方面に持っていきたかったので
今回はこのような記事になりました。
 
※この考察はあくまで当てつけであり、
本作品を批判するものでも断定するものでもございません。